第一章〜トレゾアの夜明け〜 |
「もっと一緒に居たいの…ねぇいまから…」
紅を引いたように赤い唇がついさっき直したばかりの
艶
やかな唇を包み、言葉を
遮
る。台詞の主は、切な気に
瞼
を閉じて、崩れ落ちそうな身を目の前の広い胸に預けた。
エレベーターの扉が開くと、夢から現実へと急に引き戻されるような
眩
しさ…
…しばしの別れを
惜
しむ恋人たちのように、男と女が抱き合う風景。新宿、歌舞伎町の朝はこんなふうにして始まる。
正しくは、「夜が終わる」になるのかもしれない。もっとも、眠らない街と称されるこの街に、いつからが朝で、またいつからが夜なのか、などといったことは無意味な定義付けなのだろうが。
「ねぇ、私の事、ホントに愛してる?こんなふうにキスするの、私だけだよね?」
「当たり前だろ、恥ずかしいこと聞くなよ、な。じゃ、おやすみ。」
タクシーを見送ると男はエレベーターに乗り込み、元いた場所へ戻る。
薄オレンジ色に点灯している最上階のボタンを
睨
み付ける様に見つめ、
「あと一往復…」
くっ、と親指で唇を拭うと、絹のように細く柔らかな髪を
掻
き上げながら
呟
いた。
椿 茉莉
。ホストである。つい半年程前までは車を売っていた、いわゆる「普通の仕事の人」だった。
彼がこの仕事に入ったきっかけは、現在彼が勤めるホストクラブのナンバーワンの「スカウト」。
たまたま訪れた茉莉の働く店で、彼に惚れ込み、自分の店で働かないかと熱心に勧めていた。
それもそのはず。茉莉は、一介の営業販売員にしておくには、惜しいほどの
風貌
の持ち主なのだ。
均整のとれた長身に、透けるような白い肌、大きく、しかし
媚
びたような
厭
らしさはなく、むしろ
清楚
な二重の
瞼
と、軽く筋の通った鼻に、紅く下唇に
色香
の
漂
う唇。なにより、およそ女性的な形容詞で
括
っても、そこに間違いなく存在する野性的な雰囲気……
いかにホストが稼げるかを熱烈にアピールしてとうとう半年、やっとの思いで茉莉を口説き落としたのである。
そして現在、在籍150名余の中でも、5指に入る戦力となっていた。
その目に狂いはなかったようである。
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最上階に着くと、シャンパンブルーの壁一面に、薄い水槽状の大きなパネル。水槽の中では
綺麗
にカットされた小さなクリスタルの粒が、ポンプの泡と踊っている。
そこに浮かぶように、乳白色の筆記体で「TRESOR」と掲げてあり、文字は後ろから蒼くライトアップされている。
そこから右に折れ、硝子の扉を開けると、
仄暗
い店内。夜景を
臨
めるガラス張りのウェイティングバーが目に飛び込んできた。
ここが茉莉の働くホストクラブ、「トレゾア」。
メインフロアといえる半地下、エントランスとウェイティングバーのある一階、少しゆったりめの中ニ階、そして個室の用意されたニ階と四つのフロアからなる店内は、淡いパール調の
緑碧
の壁を基調に、シンプルかつ優美に装飾されている。
エントランスと同じ水槽の
手摺
とアイスブルーのライトが幻想的な通路、濃い灰色のソファに合わせた、低めのテーブルは半透明の黒い硝子製、天井の透明感のあるドレープが淡くブルーに照らされ、さながら海底から水面を
仰
ぐような気分にさせる……
「茉莉ぃ〜っ!」
そんなゆったりとした時間を切り裂くように、奥のほうからヒステリックに茉莉を呼ぶ声が、フロア中に響き渡った。
彼の本日ラストのテーブルからだ。
「ねぇ、最近調子のってない?なんにも知らないと思ってる?」
そう言って彼女が差し出した携帯電話には、メールのような文章が表示されていた。
--茉莉あたしの友達と住んでる。キャバだから時間合わないけど、毎日帰って来るって。
--私は本命。
--彼氏の営業どこまで許せる。
--ダァ淋しいよぅ・・・バカ。
--質問に答えるスレ!ホスト偏。
--茉莉あたしの友達と住んでる。キャバだから時間合わないけど、毎日帰って来るって。
--自分の彼氏の客に一言言う。
--マツリクンアイシテル。ずっとキスして、抱き合っていたいよ。信じてるから…
--だからあの人アフターしないんだね。どこの店?
--それは言えない。でも有名なコではないよ。
--セントラルのドンキで、お揃いのパジャマ買ってた女は?
--↑は色。
「ああ…」
掲示板、である。ホストクラブをターゲットにした、信頼性のない噂話で盛り上がる異質なサイトの一種だ。
書かれていることの
殆
どが、ひやかしや、同業者による嫌がらせなのだが、匿名性が高いせいか、面白いようにネタが広がってゆく。全く、ホストにとっては迷惑な話である。
「最近また書かれてるのは知ってるよ。でも、みんな嘘だよ。信じろって、ね?」
「でもこの書き込み、なんかホントっぽいもん。だってアフターしてくれないじゃんか、もういいよ。」
茉莉は最近このサイトのお陰で、詰め寄られる羽目になっていて、もうはっきりいってうんざりしている。
同棲など全くの嘘である。茉莉は確かにアフターを滅多にしない。が、それには理由があるのだ。
「アフターしないのはおふくろの病院行ってるからだって、いつも言ってるだろ。」
これは事実である。病院ゆえに携帯が繋がらないことが、噂に拍車をかけているのだろう。
「それにみんなに同じコトしてるんじゃん。ばか。」
「何回言わせんだよ?おんなじことしてても、気持ちがあるかないかなの。仕事なんだから仕方ないだろ…」
「あたしに仕事してるのかもしれないじゃん。もうこういうの疲れたんだ。やめよ?」
…このパターンで茉莉の指名客は激減。しかも残っているのは月に一度来るか来ないかのいわゆる「
極細
」である。色恋で引いていてある程度の売り上げになるのは、もうこの女性を含め、片手でお釣がくる。
ホストサイトの噂も、今まで何度かはそれでも切り抜けて来た。しかし、
愛
しい男の噂だ、
度重
なると女の方も
堪
えるのだろう。
離れていった指名客の殆どは、茉莉が売れ出したここ2〜3ヶ月の客だ。「枕」つまりSEXをしない色恋では、このくらいの期間で女の方が見切りをつける。サイトがそれを助長するのだ。
「じゃあねっ」
茉莉の手を振り解き、ひとりでエレベーターに駆け込んで、また一人、離れていった。
こうなると電話も着信拒否、こちらの言い分を聞いてもらう余地もない。
「っんだよ、どうせまたどっかのホストにハマるくせに…俺の代わりは
幾
らでも居るって事かよ!っくしょうっ…」
茉莉は閉ざされたエレベーターの扉を強く、蹴り飛ばした…
第二章へ続く
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