第十章『潮時』U |
店を後にし、
茉莉の車に乗り込むや否や、琴璃がさっきまでのそれとは比べ物にならないほど取り乱して、泣き出した。
大人で、上品な
風貌
とはかけ離れたその姿に、茉莉はいたたまれず琴璃の頭をそっと撫でた。
決別を意識して子供のように泣きじゃくる琴璃に、茉莉はかつての里菜を重ねていた。
里菜の表面の明るさに、その奥に隠された淋しさや苦しさに気付けなかった自分の不甲斐なさを思い出し、にこやかで新人や自分にいつも優しい琴璃の内側の想いに気付けずいた自分を、悔やむ。
車の少ない深夜なら歌舞伎町から車で15分ほど、というところに、琴璃は住んでいた。
車窓から見える景色は次第に暗くなり、カーステレオを付け忘れたままの車内は静まり返っていた。
ネオンを遠ざけるように緑の中を走り抜けていく車のなかで、琴璃の小さな嗚咽だけが、響いている。
茉莉は先に車を降りると、力なく泣き崩れる琴璃を支えながら車から離れた。
普段なら琴璃を降ろしたあと、そのまま折り返して歌舞伎町に戻るのだが、あまりにも弱々しい琴璃を、独りにするのが不安だったのだ。
「…ごめんね、ありがとう、折角だからお茶、飲んでって、ね。」
涙顔で、やっと、という無理矢理な微笑み。
この人は、こんなになってもまだ気を使おうとしているのだ。もっと当り散らしたり、わがままになっても今なら誰も
咎
めないのに。
そして、気を使う言葉遣いでありながら、独りにしないで、というメッセージも織り交ざっているということも、よく理解った。
琴璃の部屋は、意外にも女の子らしい部屋だった。
意外にも、というのはもちろん男っぽいイメージを持っていて思ったわけではない。もっと、生活感のない、シンプルで高級感のある部屋を想像していたのだ。
実際、マンションはいわゆる高級分譲タイプで、賃貸で契約していて25万円、とか言っていたのを憶えている。
以前聞いた記憶では角部屋の1DKで、玄関を上がると3つの扉に出会った。白い木枠にクリアなガラスがはめ込まれているドアが3つ。壁のクロスも白なので、とても清潔な印象だ。
ひとつは洗面所、ひとつはキッチン、そしてもうひとつがリビング、といった具合だろう。
そこまではいたってシンプルな、マンションの外観通りの雰囲気だった。
茉莉が意外だと思ったのは、その真ん中のドアからリビングに通されたときだった。
部屋は14畳ほどで、目線の低い位置に配置されているのは淡いピンク色のL字ソファ。そしてソファの前に白い手塗り風な木目の四角いテーブル。ソファには黄色いクッションが数個、並べられている。
ソファと対角に置かれたナチュラルな木肌のローボードが部屋をふたつにくぎっていて、上には50インチ近くありそうな液晶テレビとたくさんの写真立てが置かれていた。よく見えないがほとんどが2ショットであった。おそらく敦司とのものだろう。
なにより先に目に飛び込んできたのは、角部屋ならではの、
二面採光
のベランダへとつながるであろう大きな窓にかかる黄色いカーテンだった。よく見ると白いラインでなにか花のような模様が描かれていた。
その黄色の鮮やかさと白、ピンクといった色合いがどちらかというと里菜的なジャンルの女の子の部屋、という感じがして、意外だったのである。
「座って待っててね。」
琴璃はそう言ってテレビの後ろの白いタイル張りのパーテーションの奥へと消えていった。
茉莉はピンクのソファに座り込み、まだきょろきょろを止められずにいた。
程なくして、着替えを済ませた琴璃が奥から現れた。
「ごめんね、なんか、あのままだと店の気分引きずっちゃう気がして。すぐお茶、入れるから。」
そう言いながら、薄手のタオル地の、キャミソールドレスのようなラフな格好で、入ってきたのとは違うドアを引いてまた消えた。
キッチンへは、廊下側からとリビング側からの双方向からの出入りが出来るのだな、さすが分譲賃貸、と茉莉が変な感心をしていると、琴璃がキッチンから声をかけてきた。
「コーヒーと紅茶、どっちにするー?冷たいウーロン茶もあるけどー?」
「あ、紅茶、ください、あ、煙草、吸っても良いですか」
テーブルの上に灰皿があったので茉莉は断りをいれた。
「どーぞー」
戻ってきた琴璃の運んできたトレイには二客のティーカップ&ソーサーとポット、それにクッキーが乗せられていた。
「ふふっ、ヘルプって感じだったわね、今の」
「すみません…」
茉莉が照れくさそうに笑うと、琴璃もつられて微笑んだ。
サーブされた紅茶を飲みながら、茉莉は敦司の事をぼう、と考えていた。
琴璃も黙ってカップの取っ手に手を添えていた。
なんとなく、違和感をおぼえる空気が、微かに漂ったのは理解った。だが、その空気を確実に「それ」と悟って気をそらすまでの機転は利かなかった。
力ない、儚げな細い腕が茉莉の首に
絡
みついて、軽くウエーブのかかった栗色の揺れる髪が頬にかかり、そこで気付いたが、手遅れだった。
その一瞬のような、スローモーションのような出来事を、茉莉は受け入れてしまったのだ。
くちづけは、紅茶の
馨
りがした。
茉莉の同情心が、琴璃を拒めなかったのだ。
「お願い…抱いて」
茉莉は答える代わりに、唇を塞いで、細い体をきつく抱き締めた…
第十章 Vへ続く
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