第十章『潮時』W |
「おっそーいっ!」
毎日ほぼ昼前には帰宅する茉莉が、午後一時を過ぎても戻らないことに、里菜は
苛立
ちを隠せないでいた。
アフターをしない茉莉は、閉店してまず、電話をかけてくるのが普通だった。
だいたい朝の9時頃だ。
今から帰るだとか、用事などがあれば、だいたい何時くらいに帰れそうだとか、そういう会話をするのである。今日はその電話すらない。
しかも10時をまわったあたりでトレゾアに電話をかけたときには、新人らしきスタッフが、帰った、と言っていた。
クラブノアールに行って、朝方戻ってきたが閉店よりだいぶ前に帰ったというのである。
それからかれこれ三時間、こんな調子で待っていた。
茉莉と連絡をとろうにも、携帯は着信しない。
「ただいま、留守にしています、発信音の…」
「むっっかぁ〜、あったまきた。ずっとチョクルスじゃん。なんなの。」
何度かけても留守番電話センターに、即転送されるのだ。
ディオスで茉莉と再会し、それからは広々とした高級マンションで、二人で不自由なく過ごす毎日。
仕事は吉原こそ
辞
めたが、その後もといた店に戻り、相変わらずヘルスで働いているが、それは特に茉莉の為にではなく、飲みたい時に飲み、欲しいものを
気兼
ねなく買いたいからであって、茉莉も気にせず
承諾
している。
出勤日数は週2程度で、あとは家で掃除をしたり趣味のネイルアートに
勤
しんでいた。
大切にされ、愛されているという実感もちゃんとある。
しかし相手がホストである場合、その実感というのはとても
脆
く、
崩
れやすい。
ほんの一度、定時の電話連絡がないというだけで、ほんの数時間、いつもより帰宅が遅いというだけで、それだけで180度反対の、不安な気持ちに
陥
るのである。
そんなときはいつも、例の爆弾サイトが真実に見えてしまう。
「酔っ払ったとかいって、帰ってこなかったときも、ホントは誰かと…」
あまりネガティブにならない性質の里菜でさえ、嫌な考えで頭の中が一杯になる。
やはり茉莉のこととなると話は別のようである。
「う〜…だぁ〜っ」
もやもやというか、くさくさする気持ちの当てどころが見つからず、里菜は意味不明の言葉を連発して、部屋の中をうろうろするだけだった。
二人が同棲していることは、ごく親しい友人にさえ、知らせていなかった。
知っているのは、敦司と琴璃、たった二人である。
その二人とも、連絡が取れないので、里菜はもう
八方塞
りであった。
二時になっても、三時になっても茉莉は戻ってこなかった。
携帯も相変わらず
圏外
である。
「出掛けるっ」
大きな独り言とともにカバンを
掴
み、勢いよく部屋を飛び出した。
行くあてはなかったが、部屋で
独
りでいるよりはまし、ということである。
そのころ茉莉は新宿のパークハイアットにいた。
里菜の不安と怒りをよそに、
上層階
の宿泊者専用の
展望
ラウンジでコーヒーブレイク。
二泊分の料金を先に支払い、出勤までの時間をホテルの
施設
でできるだけホストを忘れて過ごす。それが昨日の
疲
れを
癒
すための、今日のテーマである。
近くの席から、インターナショナルな
商談
や、大手企業の株価
云々
などといった、店ではあまり聞くことのない会話が聞こえてくる。
定年後の
諸国漫遊
を楽しんでいるのであろうか、
初老
の外国人夫婦や、姉妹のような母子など、旅行らしき人々も見受けられる。みな持ち物や振る舞いから、
裕福
である様子がさりげなく
漂
っている。
清潔感
の漂う一流ブランド服をさらりと着こなしている茉莉は、その雰囲気の中にいても全く違和感はなかった。 白いワイシャツとブラックデニムのジーンズ、軽装だが、見る者がみればそれがただの軽装でないことがわかる。
歌舞伎町では、それらのブランドネームは特別であって、すなわちそれらを身に
纏
う茉莉は、特別な、選ばれた種類の人間ということになるが、こういう階層の人間たちが集う場所に
於
いては、むしろこれが普通であるようだった。
この、「普通」のラインをクリアしていて、初めて当たり前のようにサービスを
提供
される側にいることが出来る空間なのである。
初めて来たときは、まだ販売員だった。
契約ごとで訪れたのだが、そのときはこんなふうに
脚
を組んでコーヒーを飲んでいる自分など、想像の世界だけだと思っていた。
別に会員制などではないので、一泊数万の宿泊代を支払いさえすればいつでも飲めるのだが、要するにテンションの問題である。
茉莉は、階層意識の強いタイプである。周りと比べて
羨望
の地位にいることが、
己
のアイデンティティーなのである。
決してそれを自慢にしたり、それで他人を見下すつもりも
毛頭
ないのだが、そうでないと、不安になるのだ。
小さいといえば、小さい男である。
ブッフェスタイルのラウンジはチェックインアウトなどが行えるデスクも
備
えていた。もちろん、上層階の宿泊者専用である。
茉莉は、
鮮
やかな香りのフレッシュフルーツや焼きたてのデニッシュの香ばしい
馨
りの中で、そのデスクのやり取りを
眺
めていた。
数ヶ国語を自由に
操
り、
顧客
の要望に
応
えてゆくホテルスタッフを見ていると、自分も頑張らねば、という気持ちになってくる。
「すみません、いまからエステの予約って出来ますか」
視線を窓のほうへ向けてコーヒーを手にした
瞬間
、日本人の声がしてデスクを
振
り返った。
「あっ」
思わず声を
発
し、持っていたコーヒーカップを皿の上に置き
損
ね、倒してしまうほどだった。
すぐにウエイターが
駆
け寄ってきてテーブルの上を取り
繕
ってはくれているが、茉莉は最悪の光景から
逸
らせなかった。
「…どうゆうことなのかなぁ」
デスク前の日本人が放ったその言葉は茉莉に向けられていた。
里菜であった。
第十章 Xに続く
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