第十二章『危機』X |
「おいっ!」
敦司は横たわる人影を見つけて叫び、駆けっ寄った。智香の腹部周辺に黒光りする水溜りが出来ていた。もちろんそれは水などではない。
「う…」
信じられない光景と立ちのぼる血の臭いに、敦司の口から低い
呻
きが漏れた。
駆け寄り、腰を下ろすとその肩に、首筋に触れた。もう二度と会うことはないだろうとさえ思っていた相手との久しぶりの対面が、まさかこのような事になろうとは。
死んだ、と言われ、死んだと思って触れた肌はやわらかく、まだ、暖かさも残っていた。血だらけの
胴体
に触れるのは出血をひどくさせそうで手首で脈をとった。それはかすかに、しかし確かに、動いていた。
生きている!
救急車を呼ぼうと、腰に手をやると、携帯電話がなかった。
戻ろうと振り向くと望が、敦司の携帯電話を持って、
生気
のない足取りで歩いてきていた。
「なぁ!おい!生きてるぞ!なにぼさっとしてんだよ、救急車呼べ!119!」
「あ、え、っと…電話、ひろったの」
「んっだよっ、いいからよこせ!…もしもし…」
自分の犯した事柄に動揺しているせいで思考回路が混乱している望は、敦司の言動に反応できず、ただ、おどおどするばかりだった。敦司は望の手から電話を乱暴に取り上げた。
しかし、本来は事件であるから、連絡すべきは110番であった。敦司もまた、いやそれ以上に動揺していたのだ。
状況を説明すると警察にも連絡しますと言われた。もちろん構わないから、とにかく早く来てくれと敦司が
煽
って電話を切ると、琴璃がひくっひくっと小さく
痙攣
した。失血によるショックである。
敦司は行く予定だったバーに飛び込み、ありったけの氷を要求すると、琴璃を氷で囲った。
意識のない人間の体温を下げる事は
極
めて危険であるが、放っておいては死しかない状況では、時として体温が高いほうが出血量も多くなり、危険なのである。万一の可能性に賭けて、敦司は出来ることをするしかなかった。
救急車が到着するや
否
や、降りてきた乗員の一人が横たわる琴璃のポラロイド写真を撮った。
「っにすんだよ!」
敦司は驚いて殴り飛ばしてしまったのだが、被害者を搬送してしまうため、あとから来る警察に見せるために必要なのだと
諭
され、しぶしぶひきさがり、琴璃が担架に乗せられ、車内に収まるまでを見送った。
出血がひどいせいか、大災害の救助活動で使うようなオレンジ色のビニール製の長ズボンを
穿
かされていた。そういう重々しい処置が、琴璃がいかに危険な状態であるかを物語っていた。
車の中では
慌
しく乗員が応急処置をしているようだったが、あっという間に扉が閉まり、けたたましいサイレン音をあげて車は行ってしまった。
先ほど敦司が殴った相手が警察との引き継ぎのために残され、警察が来るまで一緒にいてください、と言って、通常だと事件性のある場合は警察と消防、つまりパトカーと救急車は同時に到着するようになっているらしいこと、しかし今回は被害者の容態に
一刻
の
猶予
もないことがわかっていたので消防が独立して先着したこと、そのため被害者の居る状態の現場写真が必要だったこと、などの説明を受けたが、残された敦司にとっては空を
漂
うただの音でしかなかった。
パトカーが来るまでの、そのほんの1分たらずが何時間にも感じられた。
警察が来て事情聴取がはじまった。2、3分と言ったのにも関わらずなかなか終わろうとしないので、敦司は
苛立
っていた。
「…すると、あなたがここに来たときはもうキタムラさんは倒れていたんですね」
「だから、何度もそう言ってるじゃないすか、」
「なるほど、ではキタムラさんは、あなたの部屋に来る途中だったんですね。」
「あいつは俺んち知らないんす!もうあっちに聞いてくれませんか、俺、本当に何も知らないんで!」
「向こうは向こうで、事情聞いてるから。加害者は良いこと言おうとするからね、こっちもちゃんと聞いとかないとマズいのよ。」
「わかりましたから、病院向かってください、車ん中で話しますんで!」
敦司はマニュアルどおりで
融通
のきかない警官を
睨
みつけ、琴璃の搬送された病院へと向かった。まだ手術中であった。つまり、生きている。
手術が終わったのは敦司が到着してから1時間ほどであった。出血はひどかったが、
刺傷
なのでさほど時間はかからなかったようだ。敦司は少し安心した。しかし、案内された四角い部屋の中央、琴璃は、ビニールハウスの中にいた。
幾本
もの管で様々な機械と
繋
がって。
「ちょうど
門脈
を損傷していて、出血が多すぎたようです。冷やしていたのが
幸
いして脳波が
微弱
に反応していますが、傷が完治するまでもつかどうか…生きているだけで奇蹟のような状態です。」
医師の言葉は
無機質
なアナウンスのようで、敦司の耳には、遠く、感じられた。敦司は後悔などという二文字では
括
れない気持ちでビニールハウスの中の白い山脈を見つめていた。生きている。しかし…
体が熱くて
堪
堪らなかった。汗をかくような暑さではない。熱いのに冷たい。ドライアイスのような、白い炎が敦司の体を熱くさせていた。
「なあ、お前、俺の知らねえトコで幸せにやってんじゃなかったのかよ、なぁ…」
医師が警官に
促
されて部屋を出た後も、敦司はその場から離れる事が出来なかった。
望の事情聴取で、盗聴の詳細が明らかになった。
どうやら、敦司が指輪をオーダーしたハリーウィンストンの女性店員が望の友人だったらしい。敦司を写真で見た事があったらしいのだ。
最高級のジュエリーショップにまさか客の知り合いがいるなどとは思いもよらなかった。
つまりエンゲージリング=結婚、しかもその指輪に刻まれる名前が自分ではないと知った望は、店に行く事がなくなったのである。
そして、相手が誰であるかを探るために、敦司と関係のある場所に盗聴器を仕掛けたというわけだ。
望の友人たちが各店に仕掛けていて、実はノアールにもそれはあった。
レジ横の小さなクロークハンガーの脇に従業員たちが携帯電話を充電している場所があり、そこには常時数台の電話が置いてあった。そう、その中の一台がそうであった。
擬態
、というか、携帯電話そのものであるため、だれも違和感を感じなかったのだ。
もちろんそこで敦司の自宅であるとか、そういうことは仕入れた。が智香、という女性が琴璃であることやその住まいなどまで調べ上げたのはまさに女の
執念
であったと思われる。
翔太朗の店と茉莉、ノアールのほかに紫苑、愛本店、E・Sが盗聴されていた。
この日、望はメールアドレスが変わった敦司のふりをして、大事な話があるから自宅に来て欲しい、と琴璃を呼び出したのだ。琴璃は、自分の携帯電話が変わった事など知らせていないのにもかかわらず、敦司からの突然の呼び出しで、しかも自宅にとあって、おそらく捨てきれなかった期待を再浮上させたのであろう、そしてあのマンションでの惨事、である。
「…で、カッとなって持参していた包丁で刺した、と。」
薄暗い取調室で、一通りの
供述
を聞くと、取調官が言った。
「でも、本当はもっと嫌なやつだったら殺してやろう、とは思っていました。でも…」
暫く落ち着いて話していた望が泣きだし、続けた。
「彼女、肉体関係がなかったと、そう言ったんです。それほど大事にされてたって、ことなんです。」
自分や、知る限りのほかの客は抱いていたのに、彼女だけ違った。誰としていても自分のときだけは違う、と、セックスが愛の証だと思っていた自分が急に恥ずかしくなった。それがとても悔しかった、と。
敦司にしてみれば、どの女性もある時点までは
隔
てなく愛しかった。実際に抱かなかった事が愛の証かと問われれば、そういうわけでもないのである。けれど今にして思えば、肉体を知らないことで、琴璃だけが自分の中で
神聖化
されていたのかもしれないとも思った。
けれどそれがどうした、としか今の敦司には思えなかった。抱こうが抱くまいが、
諍
いなどにならぬよう、愛してきたつもりだったのだ。しかし望は二度目である。自分が幸せでないばかりか、関わった女たちが不幸になるのが、やりきれなかった。
敦司には、望を憎む事など出来ない。
「ホストって、女不幸にするだけなのかよ…」
敦司は更に深い闇の中へと迷い込んでいった。
第十三章に続く
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