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第十三章『選択』T |
件の事件を茉莉の耳に届けたのは、敦司ではなく、警察でもなく、いち客からの電話であった。
「茉莉くん!敦司さんが人殺したって本当!?」
いきなりこんなことを言われたとあっては、さっぱり意味が理解らなかった。
客からの着信は、数件目だが、どれも同棲の話題だったからだ。
デタラメだよ、と言うのにも慣れてきた、そんな頃合だった。
「何それ?あるわけないじゃん、そんなこと」
茉莉はもちろん少し驚きはしたが、それでも話が大事過ぎるので、思わず笑い飛ばした。
「茉莉くんが知らないんなら、ただの噂だよね…敦司さんが血だらけで警察に…」
「え?」
あまりに過ぎるネタだったので、思わず食い付いてしまった。
「だからね…」
客の話によると、友達の働いている店の同僚の友達が、警察署の前に停止ったパトカーから、血だらけの敦司が出てくるのをみた、と。
目撃した当人は、用事で警察署からちょうど出てきたところで、すれ違った際、殺人がどうのだとか、ガイシャは元客だとか、そういう話を小声でしているのを聞いたのだそうだ。
「何かの間違いだよ、敦司さんに連絡とってみるけど、普段もタイミングあわないときあるから、話とめといてね。」
そう言ってはみたものの、盗聴の件も解決していない状況もあいまって、あながち、嘘とも言い切れない状況に、茉莉の心臓はヘヴィーメタルを熱演していた。事件を知らない茉莉は、もちろん盗聴の件が解決していることなど知る由もない。
そしてよくないことに、敦司の携帯電話は圏外であった。
茉莉は敦司をよく知る、Smappa!の手塚 真輝やEDENの鮎川 優など、知る限りの人物に急用で、と敦司の所在を問い合わせた。 が、示し合わせたように誰も何も知らないと言う。
もともと、車好きの敦司は単独行動が多いので、普段でも数時間連絡が取れないことなど、ざらにある。しかし、今回は状況が状況であるだけに、すぐに連絡が取れないことが不安な心に追い討ちをかけた。
「敦司さん…」
日付がもう変わろうとしている。あとほんの2、3時間もすれば、遅くとも敦司がノアールに顔を出す時刻だ。
それまで待つのも辛かったが、それも仕方ないと茉莉は肩を落とした。
「さっきまで会ってたんだし、人違いだよ。」
独り言で自分に言い聞かせても、この不安は拭いきれなかった。
結局、盗聴器が見つかって里菜に起こされてから、茉莉は寝ていなかった。
が、時刻は0時を過ぎており、茉莉自身も出勤の身支度をしなくてはならない時間だ。
「もうこんな時間だ…」
めまぐるしい一日が終わらないまま、翌日を迎えてしまった茉莉は、うなだれた様子でシャワーを浴びに浴室へと向かった。
実は茉莉は、自宅の浴室があまり好きではない。
里菜がデコレーションしたせいである。
「それ」は毎月のようにリニューアルされるのだが、毎度、どうしようもない里菜節で執り行われるのだ。
季節や動物、植物などになぞらえてデザインされているようなのだが、屋外用のカッティングシートまで用いる凝りようで、壁一面豹柄で、天井のほうから蔦が降りてきていたり、ブランドのモノグラム柄とか、有名絵画シリーズなんてものまであった。
バレンタインの日などは赤地に、ピンクのカッティングシートでハートがちりばめられていて、翌日にはまた違う柄に変わっていた。あれには少し感心したが、どうにも疲れが取れないのである。
例えばちょっと一晩遊びに行ったホテルの浴室がそんな感じなら、新鮮なのかもしれないが、毎日入るものに関しては、出来るだけシンプルなほうが好ましい、えてしてそういうものである。
ネイルアートが得意な里菜だけあって、奇抜ではあるがセンスは悪くない。それがまたマズイのである。
もうちょっとセンスが悪ければ、それを理由に制止することも出来るのだろうが、一部で里菜ネイルは評判が良いらしく、ことデザインに関して里菜は少し自信を持っているのだ。
ネットショップを開こうかとも思っているようで、最近はせっせとサンプル用のネイルチップを作っている。
そんな里菜のもうひとつの楽しみが、浴室デザインなのである。
止めさせられない理由には、もうひとつ、重要なものがあった。
茉莉と同棲していることである。
つまり、里菜は外で満足に友達を作れないのである。
ネイル仲間には風俗嬢であることを隠しているし、誤解される可能性が高いためホストと同棲している話など出来るはずもなく、また風俗店の同僚たちのホス話にも加わりづらい。しかも茉莉とはもう切れたことになっている。
ホスト茉莉を守るため、自分を守るために、深く自分の恋愛を語れないせいで、女友達としての絆を確立できずにいるのである。
もちろん男友達というのもなかなかむずかしい。
いずれにしても、話友達程度の関係にしか、なりようがないのである。
そんな里菜が家で楽しんで行っていることを止めるのは、茉莉としても気が咎めるのである。
そうして茉莉は今日もまた落ち着かない場所でシャワーを浴びるのであった。
「あ、ただいま!」
タオルを持った右手で髪をくしゃくしゃと拭きながらリビングに戻ると、ネイルの依頼で出掛けていた里菜が帰ってきていた。
冷房の風で、少し丈の長いシルクのトランクスがサラサラと腿を撫でるのが心地良い。
「いつ帰ってきたの?」
「1分前くらいだよ。今日ね、」
そうして、いつもの他愛ない会話が続く。敦司宅から帰宅してきたときの気まずさは、もうなかった。
盗聴器がまだどこかに、という不安は少しあったが、自分だけではないということで、少し安心していた茉莉は、その件に関してはだいぶ落ち着いていられた。
思っていたより同棲話についてのメールが来ていないのも、安心材料であった。
茉莉は、里菜の声が好きだった。
テンションがあがるのである。里菜と喋って、浴室が居心地悪いことも、敦司のことも、すっかり飛んでしまっていた。
それより今夜は社長と話をする約束をしていたので、いつもより早めに出掛けなければならなかった。
茉莉はそのことに頭を切り替えた分、他のことに気が回らなくなっていたのだ。
鏡の前で、茉莉が徐々にアイドルの顔になってゆく。
里菜は楽しそうにそれを見ていた。これもほぼ日課である。里菜はホスト遊びが好きなだけあって、家で寛ぐ姿ももちろんだが、「ホスト茉莉」がとても好きなのであった。
最初はじっと見ていられるのを嫌がった茉莉も、慣れたもので、もう気にしないでいる。
足もとに香水を軽く噴いて、完成。茉莉の香水は、プレジャーズ、という女性ものである。
茉莉がつけると、不思議と女っぽさはなく、とても上品な紳士に仕上がる。
この感じがまた客に受けていた。
里菜は柑橘系を好むのだが、この香りは好きだという。女性ウケが本当に良いようだった。エロティックな男性を演じる必要がないアイドルホストならではである。
「ひってはっふぁい」
里菜が、なにか口にしながら、いってらっしゃい、と手を振った。
敦司の惨事を知らない茉莉は、そうして、愛車に乗り込み、歌舞伎町へと向かった。
第十三章 Uに続く
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