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第十三章『選択』V |
敦司のいないノアールは散々だった。
いや、誤解のないように言葉を足すが、個々の仕事ぶりは今や敦司がいなくとも十分だ。
それでは何が散々なのかというと、敦司の「噂」が広まって、指名客、見物の一見客が波のように押しかけてきていたのだ。
それ以上に最悪だったのは、マスコミの取材陣であった。
茉莉が店の入っているビルに着くと、どこに隠れていたのかワイドショー、週刊誌、新聞といった取材班で、エレベーターホールに団子が出来た。
芹は突然の閃光に驚いてたじろいだ瞬間、押し寄せる人波にはじき出されてしまった。
「オーナーが殺人を犯したって本当ですか!?」
「客同士の揉め事とも噂されていますが!?」
「被害者に数千万貢がせていたとか」
「あなた、オーナーが元いた店の椿さんでしょ、真相、ご存知なんでしょ!?」
「色仕掛けの客との別れ話の末の殺害ですか!?」
「なんとか言ってくださいよぉ!」
矢のように降ってくるいい加減で興味本位の質問とカメラのフラッシュに例えようのない憤りを感じたが、ここで騒ぎを大きくしてしまってはならない、茉莉はそう思い、深呼吸をした。
「有澤は何もしていません。それから、被害者は生きてます。まだ状況が整理できていないので、お話は控えさせてください。然るべき報告はこちらからいたしますので。失礼します。」
茉莉がいつになく毅然とした態度で言い放つと、取材陣は気圧されて静まり返った。
怒りを抑えて引き締まった端正な顔立ちが、威厳と、威圧感を生んだのである。
失礼します、と紅い唇が動くのにあわせて、黒く、長い睫毛がゆっくりと伏せるまで、誰も何も言えなかった。
「芹、」
とエレベーターに乗った茉莉に呼びかけられて芹が慌てて駆け寄った。
われに返った取材陣が再びシャッターを切り出すが、かろうじて扉は閉まり、茉莉はふう、と胸を撫で下ろしたのだった。
店に入ったら入ったで、今度は客たちの相手だった。
泣く客、喚く客、取材者のような興味深々の客と様々だったが、こちらは、心配ないから、と宥め、笑顔で誤魔化し、まあまあ上手く応対できたと茉莉は思った。
夜も明け、ノアールが閉店するころ、歌舞伎町は独特の静けさに包まれる。
コンクリートのビルの隙間を通る風の音さえ聞こえてきそうな静けさの中、カラスの鳴く声と、まばらな車の走行音、そして徐行するタクシーの扉の閉開する音…
芹が非常階段から下をうかがうと、数組の取材班がまだ、残っていた。
今日の送り出し、つまり客が帰る際は、従業員にタクシーで送らせた。
取材の餌食にさせないためだ。
それでも戻ってきた者によると、追ってきた取材者もいたようだ。
それでも大半が自分を、そして敦司本人を待って、張り込んでいる。
敵ながら天晴れ、と感心している場合ではない。
茉莉は里菜に電話をかけた。盗聴事件の怖さがまだ残る茉莉は、身の回りに電化製品がないことを思わず確認してしまった。
「もしもし、俺だけど。あのね…」
琴璃のことを話すと、里菜はしきりに敦司を気遣った。
客がそんな風になれば敦司の心衰は明らかなのだが、里菜のそれは少し違っていたので、茉莉は少し気になったのだ。がそれはすぐに納得がいった。
「ねえ茉莉、敦司さんね、彼女と結婚するつもりだったんだよ。あたし、偶然知っちゃってさ。」
茉莉の中で、やっぱり、という気持ちと、なんで今更、という気持ちがごちゃ混ぜになった。
迎えにいくから、用意しておいて、と言って電話を切ると、芹が少し離れたところから心配そうに、見ているのに気づいた。
「茉莉さん…負けないで下さいね」
「…大丈夫、ありがとう。さて、車、動かしたいんだけど、下の連中追ってくるよね、どうしよっか」
作戦会議の末、おそらく顔を覚えられていないであろう芹が、ノアールのホストとスーツを取り替えて車を取りに行くことになった。
芹が渋谷駅で茉莉を待ち、茉莉は、新宿駅までタクシーで向かい、ラッシュアワーに乗じて追っ手を撒き、渋谷から里菜の待つ自宅へ向かおうというものである。
思ったとおり、黒からベージュのスーツに着替えた芹はほぼノーマークで歩いていった。
「茉莉さん?芹です、車に乗りました。やー、声掛けられた時はビビりましたけど、新人なんで会ったこともないんですーっていったらオッケーでしたよ」
芹は相変わらず朗らかな声で、茉莉の緊張した心を解した。
次いで茉莉が外に出ると、案の定、取り囲まれそうになったが、あらかじめ陰で待機してもらっていたタクシーにすばやく乗り込み、なんとか発進できた。
タクシーがそろそろ捕まらなくなるこの時間帯は、夜の住人である茉莉のほうが良く知っている。
バイクで店前に着けていた取材班数組だけが、ぴったり後ろにつけてきたが、後続車はおそらく新宿駅までついて来れないであろう。
西武新宿駅手前の時点で、車2台分の差がついていた。靖国通りに合流したところで、サヨナラである。
そしてバイクで追ってきた取材班たちも、なんなく撒いた。
本当は電車内で撒く予定だったが、茉莉がSuicaで改札を通ったのに対し、取材班はバイクに頼りきっていたためか、キップを購入しなければならなかったようで、その時点で終わってしまったのである。
Suica、とはJR東日本発行のICカードである。
オレンジカードのようなプリペイドカード同様、先に数千円支払っておけば、その料金分は自由に乗降出来るというものである。
違うのは、銀行の口座に入金するように、券売機で入金すれば半永久的に使用できるというスグレモノなのだ。
茉莉は車乗りなので、必要性など全くなかったはずなのだが、つい先日、里菜に半ば無理やり持たされたのだった。
里菜が、イメージキャラクターのペンギンを書いているイラストレーターの大ファンだからだ。
財布がかさばるので不本意だったのだが、思わぬところで役に立った。
里菜、ありがとう、と心の中で呟くと、久しぶりのラッシュアワーを目前にして、ため息をついた。
芹の待つ渋谷まで、約5分。たかが5分、されど5分。
サラリーマン時代の、それも車に乗るようになる前の、新人中の新人だった頃の記憶に残る、中年の脂と、OLたちの香水の混ざった悪臭を思い出して、茉莉は重い足どりでホームへと向かった。
第十三章 Wに続く
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