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第十三章『選択』W |
意外にも、電車の中はさほど不快なものではなかった。
混雑は激しいが、数年前より、空調が改善されたのかもしれない。茉莉は少しほっとした。 …と、茉莉が胸をなでおろすと、ごく近くで携帯電話の着信音が鳴った。
一瞬自分かと思った数人が、一斉にシャツの胸ポケットやバッグに手をかけた。茉莉もその一人であった。
まず電車に乗ることがないため、茉莉のそれはマナーモードになっていなかったのだが、慌てて変更したその時、着信が止んだ。
着信の主がこっそりと電源をオフにしたのか、ちょうど相手が切ったのかは定かではないが、妙なタイミングのおかげで非難の目は茉莉に向けられてしまった。
「あ…いや、」
苦笑いで否定してみても、ファッションモデルのような小奇麗さが全くこの場にそぐわない茉莉は、そうでなくても毎日ラッシュアワーを戦い抜く戦士たちにとって、鼻につく存在のようだった。そこへきてさらに反感を持たれてしまったのだ。
それでも、殆どの視線は一瞬で元の方向に戻った。朝から事を荒立てて、スタミナを消耗してもなんの得にもなることはない。大抵、人とはそういうものである。ただ一人を除いては、だ。
戸袋の近くに立っていた茉莉の目の前で、座席シートに座っていたサラリーマン風の男が、呟くように、喋りだしたのだ。
「…んは…これだから…近の若いもんは…れだから…」
声は次第に大きくなり、声の主がゆらりと立ち上がった。
「お前、おいお前だよ!ちょっとくれぇツラがいいからってなぁ、調子のってんじゃねぇぞコラぁ」
その怒鳴り声で、身じろぎも出来ないほど混み合っていた茉莉の周囲が、つまりその男と茉莉の周囲が、ポッカリと円を描くように空いた。
茉莉は身構えたが、男は酒に酔って寝ぼけていたようで、酒臭い息をまきちらしてまたすぐにシートに崩れ落ちるように座ると、3人分ばかりスペースの出来たシートに横たわり、ブツブツ何かを言いながら眠りについた。
「おれ電車男になろうかと思ったぜ、茉莉」
声に驚いて振り向くと、先ほど空いた空間に人が戻っていて、茉莉のすぐ後ろにEDENの鮎川 優が立っていた。
「あれ、優さんじゃないですか、帰る方向、こっちなんですか?」
「いや、知り合いに会いにね。茉莉こそ、車どうしたんだよ、ん?」
「ええ、まぁ、ちょっと…でも優さんが電車男だったら、お礼にエルメス送んなきゃですね」 「いいよ、おれお前と恋愛したくないし」
あはは、と優が笑った。
電車男とは、2ちゃんねるという巨大なインターネット掲示板からはじまった恋物語のタイトルであり、主人公の呼び名である。
茉莉も名前くらいは知っていたが、テレビドラマはおろか、本も映画も素通りしていた。茉莉は世間の流行や、話題には疎いほうで、店でもあまりそういった話はしないでいる。もっとも、それが茉莉の良いところでもあるようだ。
茉莉を指名している客たちは、ささやかな夢を買いに来る。茉莉でなくとも、ホストを指名するというのはなにか、普段と違うものを求めてのことである。
話題豊富がウリのホストもいれば、非現実的な空間作りがウリのホストもいる。茉莉はどちらかというと後者であった。
いまやホスト界ではアイドルとなった茉莉を前にし、アルコールも手伝って饒舌になった女性客の話をただ、ニコニコと聞いている、そういうスタイルが基本になりつつある。
しかも、最近は聞き上手なホストが少ない、自分勝手なホストばかりで疲れる、という客の声が少なくないので、茉莉の株は上がるばかりだった。夢を売る職業には、浅く広く、くらいの知識でちょうどよいのかもしれない。
優が乗り合わせていたおかげで、あっという間に渋谷に到着した。 出口が逆だというので、ホームで優と別れ、芹に電話をかけた。
「あ、茉莉さん、今マークシティの下ですよ、ガード下の。」
相変わらず芹は明るい声で、茉莉を和ませた。
入店してすぐに売れ出したことと、初めから敦司や社長と付き合いがあったせいで、同僚や後に入ったスタッフと上手く付き合えなかった茉莉にとって、慕われるというのは、実に嬉しいことであった。
とりわけ、いまとなっては当たり前のように茉莉に憧れて入店する者も多いが、芹はなんというか、その人懐っこさがひときわ心地よいのだ。
一匹狼に近い敦司はトレゾア時代、特定のヘルプを持ってはいなかったが、それでも面倒見がよい器用な男だけに、沢山のスタッフに慕われていた。自分はそうはなれないけれど、芹は大事にしたい、茉莉はそう思った。
電話を手短に切り、茉莉は芹の待つ場所へと急いだ。
「お待たせ。このまま、ウチ、向かって」
茉莉は芹に運転をまかせたまま、助手席に乗り込んだ。
芹はにこりと頷き、静かにアクセルを踏んだ。
「もしもし、里菜?10分くらいで着くよ、うん、じゃ」
里菜の電話を切ると、茉莉はシートを浅く倒して目を閉じた。
ほんの数分でも、こうして休めることが、いまの茉莉にとってはなにより重要なことのように思えた。しかし目を閉じると、すぐに琴璃がまぶたの裏に映し出された。
初めて会ったときの清楚で華やかな姿、ノアールで静かにはしゃぐ笑顔、助手席で泣きじゃくる姿、そして…
あわてて体を起こし、カーステレオのボリュームを上げると、芹が驚いたように一瞬、横を向いて茉莉を見た。
「あ、ごめんね、ちょっと嫌なこと思い出しちゃって」
茉莉が謝ると、芹はそうだったんですか、と心配そうに微笑んだ。
その時、茉莉の携帯が小さく振動して、里菜からのメールが届いた。
「きちゃだむ?なんだ?」
ひらがなの、意味のわからないメールに、茉莉が困惑していると、芹が即座に反応した。
「茉莉さん、来ちゃだめ、じゃないすか?」
「あっ、」
どうやらマスコミが茉莉のマンションに行ってしまったようである。文面から焦り具合がみてとれる。里菜ははちあわせになった可能性が高い。
仕方なく、里菜には面倒かけてごめん、と行き先を告げるメールをし、迎えに行くことを諦めて、病院へと向かった。
案内された病室は個室で、明るいような、暗いような、窓から差し込む光に包まれ、青白く静まり返っていた。両親らしき中年の男女と、敦司が、無言でベッドを挟んだ両壁際のベンチに腰掛けている。
琴璃の様子は、遠くてよくわからないが、ベッドの周囲には沢山の機材が並んでいる。それらが琴璃を生かしているのだということだけは、理解できた。
なんとも形容し難い重苦しい空気がたちこめている。
茉莉が話しかけるのを躊躇って病室の入り口で立ち尽くしていると、俯いていた敦司が気づいて席を立った。
「わるいな、いろいろ迷惑かけて」
「いえ、そんな」
「ちょっと、いいか」
「はい」
三人は病室を離れ、ナースステーションを通り過ぎたところにあるベンチに腰掛けた。 おもむろに、茉莉の目を見て敦司が言った。
「俺、ホストやめる。ノアールは、お前がやれ。いや、やってくれ、頼む。」
「え!?」
あまりの突然のことに、茉莉はただ、驚くしか出来なかった。
最終章 に続く
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