第八章 〜バースデー 中〜 |
「夏女 里菜です。どうぞよろしくお願いします。」
面接の時、ソープで働くことを決めた日に話に出てきていたReveの夏女 涼と言う名前が頭の隅に残っていたので、里菜は名字を「夏女」にした。
「椿」にしようとも考えたのだが爆弾サイトで話題になっても嫌だな、と考えてのことである。
高級店という名の元で想像するような金ピカの装飾はないにせよ、少し何かを間違っていると思わせるような室内。
高級感の中に、衛生面を考慮した使い捨ての道具類が入り混じってやはり風俗店なのだなといった
趣
である。
なんだ、緊張して損した。前の店と大差ないじゃん。
吉原で、一人目の客と対面した時の、里菜の
率直
な感想である。
「慣れてるね、初めてなんでしょ?」
「はい、でもヘルスに結構長くいたんで、そのせいですね、きっと。」
そんな他愛もない会話をしながら里菜は順調に「いつもの」仕事に
従事
していた。
「入れるよ」
そういって客が里菜の上に覆い被さってきた。
別に処女ではないし、そんなに大きい方でもないようで、ここでもやはり、こんなもんか、と里菜は思った。
「んっ…」
客が体を起こし姿勢を正すと、里菜の表情が変わった。
違和感、というのだろうか、異物感ではない。「そこ」に感じる違和感ではなく、心が、感じる違和感である。
体の真中に規則正しく刻まれる衝撃に、里菜は遅い後悔を憶えたのである。
ヘルスの時には思いもしなかった感覚が、動きに合わせて刻み付けられてゆくのを堪えきれず、里菜は
瞼
をきつく閉じ、客が果てるまでをできるだけ無心にやりすごした。
平常心を保ったフリをしながらその日をなんとか終えた里菜は、気持ちを切り替えて茉莉に高額収入の報告の電話をかけた。
「あ、茉莉クン?夏女里菜ですけど.。嘘、冗談、里菜だよん。稼げるねぇ、いやホントビックリだよ。」
里菜は疲れを悟られない様、わざとテンションをあげて話した。が。
「わるい、今忙しいんだ、今から挨拶で敦司さんと一緒にアッシュとイブ行くんだ。明日電話するよっ。」
そういって茉莉は里菜の話を遮って一方的に電話を切ったのである。
…何?なんで?今日は空けてくれるって言ってたよね?
途端に里菜の中から悔しさが熱くこみ上げてくる。同時に、最初の客で味わった例えようのない
嫌悪感
が再び体中を駆け巡っていった。
「もしもし、今のどういう意味?今日は空けてくれるって言ってたじゃん!」
はじめから言葉尻の荒い里菜からの電話に茉莉があっけにとられている間、まくしたてるように辛さを吐き出す里菜。
「ソープなんて好きでやるわけないじゃんっ、茉莉がいけって言うから行ったのにさ、
酷
いよ!」
「ちょっと待てよ、ソープ行けなんて俺言ってないだろ?自分で行こうと思ってたって言ったじゃん!」
なにを言ってもこれから挨拶周りを控えている茉莉には、なにも今、しなければいけない話ではないだろうという、
苛立
ちを起こさせるだけだった。
「きみがそうして欲しそうだったからでしょ!ちょっとは察してよ!ばか!」
「もううるせーよっ、嫌なら辞めてさっさとどっか消えちまえよ!」
「わかった!二度と姿見せないから!ばいばいっ!」
売り言葉に買い言葉とは、まさにこういうことを言うのだろう。
しかし茉莉にはもう時間がなかった。同業他店への挨拶周りや、客とのデート…普段あまり売り上げにならない客さえ、今月はなんとか、と愛想をふりまき続けた。
そんな殺人的な忙しさの中で里菜とは連絡を途絶えさせたまま、どちらからとも歩み寄れずとうとう茉莉は「その日」を迎えてしまったのだった。
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引っ越したばかりの10畳ほどのワンルームはカーテンもまだなく、向いのオフィスの残業中と思われる窓からの明かりが
殺風景
なフローリングを
蒼
く照らす。
暗い部屋には、安息を誘うゼラニウムの香りが甘く、漂っている。
窓明かりの届かないベッドの上で、膝を抱えて里菜が座っていた。
…もう、やめにしなきゃね…
今夜が茉莉のイベントの日。
歌舞伎町のヘルスから吉原に移って2週間が経っていた。
あの電話の日である。
店は2日無断で休んでいる。もう行かないつもりだ。
…初めてのお客の時本当に嫌だって思った。ヘルスとそんなに大差ないって思えると思ってたのに。
でも茉莉くん、理解ってくれてないみたいだった…あの日は、あの日だけは私を特別に扱って欲しかったな。 ちょっと期待してたんだ、あたし。
頑張ったら、ほろりとなってくれるかも、なぁんてさ。有り得ないよね、ドコの世界に自分の好きな女に風呂行き勧める男がいるんだっつーの。目ぇ覚ましなよ、里菜っ。
里菜は頭の中で自分に言い聞かせ、後から後から溢れてくる涙の意味を、必死で
繕
う。誰にともなく、ほかでもない自分自身に。
ホストなんてこっちが遊んでるんじゃんっ。お金払って、ちやほやさせて。かっこいい男の子連れて歩いてさ、優越感だよ、茉莉くんだってさ、飾りだよ飾り。
いっぱい洋服買ってあげてさ、着せ替えて遊んで…ほら、お人形遊びだよ、お人形。そう、別に好きとかじゃないじゃん、好きとかじゃ、ない、じゃん…
繕えば繕うほど、涙は大粒になってゆく。自分に嘘をついて、何もなかったように気持ちを切り替えることなど、出来る訳がないのだ。
約半年ほどの間に、どれ程の時間を過ごしたと言う訳ではない。けれど確実に里菜の心には茉莉が
棲
んでいた。
はじめて会った時より、次に会った時、その次と、茉莉の
些細
な表情や行動の一つ一つを、自動的に心に焼きつけていたのだから。
毎日夜中にかかってくる電話の着信音を指定にする頃には、それは確実に恋になっていた。
笑顔も、ふくれた顔も、携帯から
耳許
に聞こえるおはよう、歌声、繋いだ手のぬくもり、胸の暖かさ、そして、くちづけ…
その全てを、なかったことになど、簡単に出来る訳などないのだ。
決断を渋りながら握りしめていた携帯を開くと、明かりの灯らない部屋の隅で里菜の顔だけが浮かび上がった。
電話帳のグループからもうあれ以来鳴らない茉莉のデータを選択すると、スピーカーからはさながら茉莉から着信したかの様にいつもの曲が流れた。
「…っ…まつ、りぃ…」
椿 茉莉、と書かれた画面でプッシュすると、削除しますか?という画面に切り替わった。
OK、のほうを選択し、里菜は目をかたく閉じてもう一度、強くボタンをプッシュした。
同時に、まるで心停止を告げるかのようなピーーー、というかん高い音が鳴り響き、画面の冷ややかな、完全に削除しました、という言葉が里菜の恋の
終末
を告げる。
「ふ…、うっ…ぁあぁぁ…」
耳の奥からいつまでも離れていかない着信音を追い払うように里菜は、声をあげて、泣いた。
第八章〜バースデー 下〜へ続く
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