第九章 『一周年』T |
茉莉と煌のバースデーから時が過ぎ、桜の季節も終わりを告げると、緑の少ない歌舞伎町でも木々からは爽やかな新緑の夏の
馨
りが
漂
い始めていた。
バースデー月にNo.2をとってからは、入店から半年余りで売り上げが500万を超えたという快挙と、加えてあのドンペリ50本というエピソードもあいまって、「トレゾアの
椿 茉莉
」として広くその名を響かせるようになった茉莉。
客足も、爆弾サイトに
脅
かされる事なく安定してきたようだ。いやむしろ、有名税とでもいうのか、善くも悪くも何か書かれるごとに、女達が興味本位で茉莉に会いに来るのである。
もともと営業出身の茉莉は、自分を動物園の猿でも見に来たかのような相手をもてなす事にはとても向いているようだった。すなわち車を買おうとショールームに訪れる「お客様」に接するように満面の笑みで迎えればいいのだ。
性格が
滲
み出るその明るく華やかな笑みに、サイトの悪い噂など一瞬にしてかき消されてしまうのである。しかも見れば見る程に整ったパーツの並ぶルックスである、女達はいつしか、「会えるだけで幸せ」と茉莉を語り出すようになっていた。
アイドル営業、と位置付けされる、ホストにとって一番リスクが少なく、確実な売り上げになる営業スタイルである。
そんなアイドル営業の殿堂入りを果たした茉莉の1周年イベントがもうすぐ行われる。風俗などで働く女性向けの有名な情報誌や、ホストクラブ情報専門誌「ロア」にも、大々的に見開き広告を載せ、イベントに向けての準備が着々と進められている。
…一年かぁ。
まだ明るい夕刻の歌舞伎町を、ガラス張りのウエイティングバーから眺めながら、茉莉は回想の中にいた。
外はネオンの点灯していない看板が、世の男達の欲望を満たすべく重なり、ひしめき合っている。
その中を行き交う人波はまばらで、日本の経済もまだまだ微妙といった感じだ。客らしき男の姿はあまりみかけない。いるのは仲間とはぐれて熱さにうだる、くたびれたペンギンのような黒服の従業員ばかりである。
早番、遅番の入れ代わり時間である17時をまたぐ時間帯のせいだろうか、境目なく並ぶ建物にはいわゆる「風俗嬢」と呼ばれる女達ばかりが出たり入ったりしている。
こんな時間だとトレゾアはもちろん営業前だ。営業中には美しくライトアップされ沢山のクリスタルの粒が舞うエントランスのパネルも、今は目の前に空のビール瓶やシャンパンの入ったケースが積み重なり、使用済みのおしぼりがめいっぱい入った袋が幾つも重なり寄り掛かっている。
ある意味これが、昨晩のトレゾアの成果なのである。そしてもう一つ、昨晩の仕事の成果を物語る光景がある。
メインフロアのソファに横たわる、酔い潰れた新人ホスト達の姿である。床に死体の様に転がっているのもいる。
茉莉にも、少しの期間だったがこんな時代があった。
敦司に口説き落とされて会社を辞め、歌舞伎町に大きな夢や希望を抱いて飛び込んだあの頃。 こんな
凄惨
な現実を見ることになるなど、露程も思っていなかった。
毎夜、繰り広げられる夢という名の架空の世界では、女達はまるで「マッチ売りの少女」の様に刹那の中で夢を買う。
マッチを擦り、暖かな炎の揺らめきに幸せのカタチの幻を見る少女に似て、シャンパンを開ける度に見せる、愛しい男の笑顔のために10万、100万という大金を、一瞬で使い切るのである。
そんな儚くも華やかな夢の
傍
らで新人ホストの見る物は、夢ではなく、目の前にある「酒」という逃れようのない現実だった。
名高いクリスタルの美しい瓶に入った高級ブランデーも、200万のヴィンテージワインも、味わう暇も、余裕もない。ひとたびグラスに注がれれば、あとは口から胃袋に入るだけのただの「酒」でしかなかった。
一晩で、一生分の酒を飲んだのではないかと思う程だった。
そしてそれは激しい目眩と酸味を伴い、また口から外へと吐き出されるのだ。 夢と現実のギャップに、入店したその日のウチに、逃げるように消え去る者さえいた。 しかし茉莉は、引き下がれなかった。
酒も現実であったが、その向こうで踊る「金」もまた紛れもなく現実であった。
思えば今より、金に執着していた。
中古車販売時代に植え付けられた売り上げへの執着心や競争心が、当時の茉莉の価値観そのものであり、また販売実績がダントツでトップだった事が自分の存在価値そのものであったのだ。
ホストになったからには、トップにならなければ意味がないと思っていた。 だから、引き下がる訳にはいかなかったのだ。
一年経った今、No.1の座には敦司が相変わらず悠々と構えてはいるが、トレゾアは歌舞伎町一、いや日本一といっても良いくらいの売り上げを誇る箱だ、今や茉莉はどこの箱に移ってもNo.1になれる売り上げを確立している。
実際、好条件での移動を持ちかけてくる箱も少なくはない。しかし茉莉はここからの景色が好きだった。
歌舞伎町を、吹き抜けの大きなガラスから見下ろすこのトレゾアは、正にホストクラブの王宮なのである。
その王宮から、出るつもりなど更々ない。
それに、茉莉は金に執着しなくなっていた。
特にこれといったアクションを起こさずとも、常に5本の指には数えられるのである。
バースデー月の給料で90畳以上ある新築のマンションにも越した。3畳ほどもある広いウォークインクローゼットの中は一流ブランドの服で埋め尽くされている。廊下の靴箱も家族向け物件であるはずなのに、ひとり分で一杯になっている。この靴だけでも十分なひと財産だ。
腕時計は貰い物が殆どだが10万程のものから数百万クラスまで、イタリア製の家具で揃えられたリビングのコレクションキャビネットに30余りが整頓されている。
一ヶ月は日替わりで使える数だ。車も最近三台目に買い替えた。 毎月、新車が買える程の給料が懐に入ってくる。
賭け事や女遊びをしない茉莉には使い切れない額である。
けれど、長い病を
煩
っていた母親の死に目には、立ち会う事が出来なかった。 「200円で命が救える」と、どこかのボランティア団体がコマーシャルをしていたが、自分の実の母親の命は200円どころか、2000万でも2億でも戻ってはこないのだ。
金で買えない物があると、思い知らされた出来事だった。
母親の事を思い出し、にわかに灯りはじめた眼下のネオンがぼんやりと滲んできた。
はっ、として、気を取り直そうと腕時計に目をやると18時を回っていた。
今日は六本木に新しく出来たroppongi hillsに行く約束をしていた。 敦司とである。
「敦司さんとの待ち合わせ、8時だったよな…シャワー浴びて、用意しないと。」
茉莉はいつの間にか新しいそれと交換されたおしぼりと、中身の入ったビール瓶のケースの山をかき分けるようにして、エレベーターに乗り込み、泥酔死体達が眠るトレゾアを後にした。
第九章 Uへ続く
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